10年の沈黙を破り、関西アングラ・サイケの重鎮が再び動き始めた。

1990年結成。関西アングラ・サイケの老舗ロックバンド、ヰタ・セクスアリス。前身バンドTHE RUMBLERS時代からのオリジナルメンバーであるVo.無礼人とG.奇島残月が同居していた女郎屋街、飛田新地にある女郎屋の2階を活動拠点としたことからバンド名を“ヰタ・セクスアリス(vita sexualis=ラテン語で「性欲的生活」を意味する)”と命名。「日本語の歌詞の日本のロックを演ろう」を合言葉に、関西を中心に精力的に活動を繰り広げ、無礼人のカリスマ的ステージパフォーマンスや言葉と、奇島の繊細に狂ったファズギターは、やがては浅川マキや早川義夫といった重鎮たちとの関係を築いた。前作『モダン・デカメロン』から10年、待望のNewAlbum『Vita』が完成した。

「マッシュルームカットにサングラスの黒づくめ4人組」

―Ba.須原さんと、G.奇島残月さんが出会ったキッカケを教えてください。
須原:88年頃に、僕は“ありぢごく”っていう、ノイズとサイケデリックとパンクが混ざったようなバンドをやっていたんです。当時読んでいたミニコミの誌面に、マッシュルームカットにサングラスの黒づくめ4人組が載っていて。その横に「ジャックス(1960年代に活動した日本のサイケデリックバンド)がスキです」って書いてあった。それが、ヰタ・セクスアリスの前身バンド・THE RUMBLERSだったんです。僕もジャックスが好きだったんで気になって、ライブを観に行ったんです。そしたら、1曲目から10分以上ある曲を演奏していて(笑)。
―10分以上!
須原:そう。ドイツのCANっていうバンドのコピーだったんだけど、すごい崩し方してて面白かった。THE RUMBLERSはGSっぽいサイケバンドで、衣装もライブパフォーマンスも派手だったよね。
奇島:うん、よく転げ回ってた。ギターを弾きながら池に飛び込んで感電したりして。あはは。
―感電ですか(笑)。
須原:奇島君は熱くなるとギターを弾くことを放棄しちゃうんですよ。こないだなんてギターの弦が切れたからって、口でフレーズを言ってたんだよね。
―口でフレーズを!?
奇島:でも、ボイスも楽器のひとつなんだよね。
―おお! なんか、かっこいい!
須原:……。
―ヰタ・セクスアリスが活動を始めたのはいつ頃ですか?
須原:89年に結成して、90年に初ライブをしました。そのときは、僕はメンバーじゃなくて、なんかいろいろ相談される人って感じで。
奇島:兄貴みたいなもんだよ。
須原:Pf.AYA(タジマ)ちゃんは、「木枯し」っていう神戸のバンドでキーボードとボーカルをしてたよね。
奇島:その頃、Dr.Emmy(☆Kunocovic)ちゃんは?
Emmy:私は、マイケルジャクソンに夢中でした。
―マイケルジャクソンに夢中だったんですか。
須原:僕はあの頃、めっちゃ遊んでたわー(笑)。
―めっちゃ遊んでたんですか。
奇島:僕も遊んでました。それはもう、人間失格くらいまで遊んでいました。
―そんなに遊んでたんですか。 その頃、奇島さんはVo.無礼人さんと、飛田新地(大阪市西成区にある日本最大級の遊廓)の女郎屋の二階で同居されていたんですか?
奇島:うん。そこに住んでいたことで、“ヰタ・セクスアリス(vita sexualis=ラテン語で「性欲的生活」を意味する)”っていうバンド名を閃いたんだよね。
―“ヰタ・セクスアリス”は、森鴎外の小説のタイトルからきてるんですよね。
奇島:僕は太宰治とか森鴎外の退廃的な文学が好きだったんです。当時、朝起きたらすぐに、その日見た夢を日記に付けたりしていました。夏目漱石が夢日記を書いているときに精神的におかしくなったこともあったそうなんです。僕も頭がおかしくなりたかったんだよね(笑)。

「そうだ! 自分がレーベルをやればいいじゃないか」

―その頃、すでにレーベル「ギューンカセット」は存在していたんですか?
須原:いいえ。当時は“カセットテープ”が前衛的な手段だったんです。録音してレコード屋に納品して500円くらいで売って。ジャケットから何から、作り手がダイレクトに伝わるという面白さで。そんな時代背景もあって、バンドから「音源を出したい」っていう相談をされたとき。「うーん、どうしようかな」って悩んでいるうちに「そうだ! 自分がレーベルをやればいいじゃないか」って。それが93年の秋ですね。
―ヰタ・セクスアリスのために、レーベルを立ち上げることになったんですか?
須原:他にも世に出したいバンドが、いくつかあったんで。タイミングが重なったんです。
―須原さんは、いつヰタ・セクスアリスに加入したんですか?
奇島:1st『夢見通りのマリー』をリリースして、ベースが来なくなって。ベース募集のオーディションを何人もしたんです。けっこうな人数やったよね。
須原:そう、そんなことをやってるうちに僕になった。曲も知ってるし、人間性も知ってるしやり易かったんでしょうね。それが97年くらい。

「人間性が合わない人とは一緒にバンドなんてやれない」

―AYAさんはいつ加入されたんですか?
奇島:前作3rdアルバム『モダン・デカメロン』(2003年)をリリースしたあと、しばらく活動が止まっていたんです。僕はソロ活動をしてたんですが、“フォークギターで一人でやるライブ”っていうスタイルは絶対にやりたくなかったんです。その時に、AYAちゃんを紹介されたんです。
AYA:私は、人間性が合わない人とは絶対に一緒にバンドなんてやれないんです。奇島さんとはスタジオパズルで初めて会ったときに「いい人だな、この人とは一緒にバンドができる」って。それから、奇島残月グループとして活動してきました。
須原:僕はAYAちゃんとはノイズわかめや白波多カミンバンドで一緒にやってるから、繋がりはあったんだよね。
―Emmyさんは?
須原:活動を再開してから、オリジナルドラマーでしばらく活動してたんです。そのドラマーが脱退するタイミングのワンマンライブに、たまたま観に来てくれて。そこで奇島君がスカウトしたんです。Emmyちゃんとはあんまり面識がなかったんだけど、ドラムが上手いのは知ってました。
Emmy:ちょうど1年前のことなんですけど、まさかスカウトされるなんて思ってませんでした(笑)。奇島さんの印象は、なんかクネクネした人だなって(笑)。でも、丁寧でいい人だなって思って、即答で加入させてもらいました。
―Emmyさんは、どんな音楽をされてたんですか?
Emmy:もともとけっこうオルタナティブなバンドとかヘビーロックがスキで、そんなバンドばかりしていました。
―『モダン・デカメロン』から10年ぶりの作品ですね。
須原:活動を停止していたブランクがあるから「活動していますよ」っていうことを世の中に知らせたくて、早く音源を出したかったんです。
奇島:活動歴は長いので、音源化していないストックの曲はたくさんあるんですけど、曲って鮮度が大事だと思うので、絶えず新しい曲を作って、フレッシュなうちにまとめていきたいなって思ってます。

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